2007年6月11日 (月)

日本人の税金で、反日映画製作の「井筒監督」

先日、週刊新潮で井筒監督作品の「パッチギ」が、文化庁の推薦作品という事だったので、反日映画という事もあり、何故推薦したのか聞いてみた。

すると制作前の脚本の段階で文化庁推薦となり、文化庁から我々日本人の税金である3000万円が出ているという事がわかった。

まったく朝鮮人は浅ましい、日本人の金で作る映画なら、少しは反日映画を作る事は、ためらうものだと思うのだが。

まさに、恩をあだで返すというのはこのことだ。

日本人が軽蔑する事をやってのけることが、彼らにとっては誇りだというが、この発想では、何でもありなのかもしれない。

だから嘘をつくという発想にもなるのだろうが、間違いなく地獄に行くだろう。

また人の怨念というものが、いかなるものかを知らない彼らならではの無宗教・無秩序の民族ならではのものだ。

朝鮮人の日本人に対する感情もうなずけなくもない。文化とか生活習慣や宗教観が違うし何かと摩擦が起きようというものだ。

しかし朝鮮人の我われに日本人に対する非難以上のことを、朝鮮人は日本人にしてはいないか。

うそつきが得をする世の中ではいけない。

「暴行」一つとっても年端も行かない女子供相手に、ひどいことをしていないのか。

あまり、調子に乗った言動はすべきでない。朝鮮人!

これでは日本人の名を名乗っていても、朝鮮人のままで精神も・・・なのではないか。

これでは日本人が、世の中で誤解を受ける。創氏改名・通称名撤廃。

反日映画を作りたいなら、名を戻し、自腹で製作すればいい。

少なくともパチンコでさえ(儲かっている)ほとんど税金を払っていない。君らだけの税金ではないのだ、ほとんどが我われ日本人の拠出した物だ。

恥知らず、世には、馬鹿流(世にはばかる)。

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2007年5月14日 (月)

黒鉄ヒロシ先生の発言に一言

朝鮮人の主宰する宗教団体は、宗教は金儲けや女を集める手段としか考えていないのではないか。

またあの単純な思考のついでに、まじめに教義について学ぼうとなどしないから、何かと問題を起こすということになるのではと思っていた。

韓国のベストセラー作家の本など、読めたものでない。単純すぎないか。ドラマも然り。

真理を追求しない結果、信者を欲望の対象としか見ないという事がおきる。そして宗教は悪いものという議論に拍車がかかる。

朝鮮人には、困ったものだ。

数々の宗教関係の悪い事件がおきるたび、たとえば摂理のように、すべての宗教は百害あって一理なしではないのかという議論になってしまう。

結果が、「宗教は言葉があるから生まれたものという認識が必要・・・」というような、黒鉄先生のようなご意見なってしまう。

宗教は、伝えるために言葉にした部分もあるだろう。しかし、それだけでは伝わらない部分があり、それを修行でうめるはずだ。

私は単に先祖を供養し、いずれ自分が墓に入ったとき、われわれの死後も思い出してもらい、今自分が先祖にしているように好きな供物とか花とかを供えてもらうための宗教であって良いと、かつて思っていた。

しかし最近の人心の荒廃を目にし、さらに目を覆いたくなる現実の事件が度重なるにつれ、何が人を人として支えているのか。

他の痛みがわかる人間ならば、それをしないで歯止めをかけることが出来る。

人には考える能力があるからこそ、宗教というものがあるのではないかと、仏典を読んで納得するに至った。

もし動物と同じならばまさに弱肉強食で、宗教のある今の世界よりもさらに悲惨な結果になるのではないか、だからこそ宗教は必要なのだという逆説的な結論になった。

黒鉄先生の言うように「宗教があるから混乱がある」のではなく、宗教を悪用しているものの存在が問題なのではないか。

したがって朝鮮人のように、欲得のため宗教をかじり教義も学ばず、それでいて他の民族がキリスト教や仏教に学ぼうとすることを邪魔し、考える頭もないのに知ったかぶりをしているさまにはあきれていた。

宗教の教義などは、自分たちが悪さをするために適当な解釈に摩り替えるというのが彼らの特徴だ。

本当の宗教とはもっと深遠で、理解できる範囲も其の人格によるという。

したがって仏教などは、資格のないものには教義の深遠な部分は伝わらないし伝えない。

「嘘をつくことは正しく、騙されるほうが悪い」などという朝鮮人の精神や発想では、まず宗教が解かろうはずはない。

キリスト教も、深遠な教義があると感じている。

宗教を否定することは、「まだまだ学ぶ事がある」ことの意味で、宗教に思いを馳せるにいたっていない人格であると見ている。

ただ生きること・病むこと・老いること・そして死ぬことが人間には宿命としてあるわけで、それに直面したときに、人は必ず生と死について考えることになる。なぜなら死とは、誰しも避けて通れないことだからだ。

したがって逆境にあるときや病のときは、これらを考える良いチャンスではないかとも思う。(ただこのような時に擦り寄る者がいるが、警戒が必要だ)

逆に順風満帆の人生は、考えるチャンスに欠けるという点では、ある意味不幸なのかも知れない。ゆえに、自殺などは思いとどまり、それと対峙すれば何かが見えてくるのかもしれない。

そして自分はなにものなのかという疑問がわいてくるのだ。人体の細胞の中に自分があるわけではない。

したがって、死に近くなってこのような疑問であわてるよりも、優れた宗教家の話などを聞いておく事は、転ばぬ先の杖だと私は感じている。

くれぐれもペテンにひっかかからぬように注意されたい。たとえば宗教のはずが「宗教は悪」という共産国家と親しくし、宗教弾圧する国の要人と会談するものや、金だけが目当てのものは、論外だ。

人の人生の時間は取り戻せない、今が大事なのだ、この時をどのように生きるべきかという助言は、その世界で実積を上げ厳しい修練をした方々の真理を聞く事にある。優れた宗教家の説法や本は、大切な言葉であると、昨今感じている。

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2006年11月 6日 (月)

大阪の「ワッソ」は廃止せよ

ワッソとは韓国語で「来たぞ」と言う意味だという。

客人が「来たぞ」などと言って入ってくるはずもなく、この意味するところは、朝鮮半島が日本を配下として捉え、「さあー来てやった。接待しろ」という事か。

自ら発展途上国だといっている中国に、誇り高い朝鮮が出向く時でさえ「来たぞ」と言って訪問しないだろ。日本をバカにしているし、日本人の神経を逆なでしているわけで、ひと悶着おきるのが当然のはずだ。

分かっていてこういうことをしていると見るべきで、日本がこのようなことをしたら朝鮮半島では、国旗を焼く程度でおさまらない。

またこの祭りに参加する日本人と言う女は、「朝鮮人みたい」と言われることが、うれしいのだという。(朝鮮人は美人だから)

またワッソでは、朝鮮が技術や文化を日本にもたらし「日本に教えてやった」から、日本の今日があると言っていた。

ここには、日本人でありながら日本人としての、誇りが感じられない。

さらに、朝鮮人をルーツとする者たちの、口に出る言葉として「諸君の怒りを思い出すが良い」とあり、過去の日本への怨念を糧として、団結を強いてきたこれまでがある。

心のわだかまりがあるからこそ祭りの名前でさえ「ワッソ」などと言う、文言になるのではないか。

「朝鮮祭り」とか、「高麗祭り」と命名する方が、穏やかなのである。

ルーツを朝鮮人とする方が「韓国にきて、さまざまの若い人にあったが、若い人のたれもが口をそろえて三十六年間の日本の圧制について語った。最もであり、そのとおりであるが、それを言い過ぎることは若い韓国にとってどうであろう。言う事は良くても・・・」と講演で説いていると言う。(司馬遼太郎著「故郷忘じがたく候」参照)

そして、「新しい国家は前へ前へ進まなければならないのに、その心情はどうであろう」とも言っている。

日本にしても、日本に対する怨念を秘めたまま、日本に来日し我が国の国民として、この「日本丸」と言う海に浮かぶ島に乗り合わせることは出来ない。

ましてや「来たぞ」などと、土足で家に上がりこむようなもので、まるでけんか腰である。

また今は日本に対する北朝鮮の核ミサイルの脅威と言うものがある。

このように見ると「日本国憲法の在留の条件」に彼らの言動は、反している。

したがって、「ワッソ」を廃止する事が、「日本に対する叛意なし」と言う意思表示と理解しよう。そして、これが踏み絵である。

共に日本国民として国を歩む気概のないものは「退去強制」が相当である。

そのように、日本国憲法は書いている。

いつまでも、いつまでも朝鮮半島に心が向き、真の日本人となる事を絶ち、日本で生活保護などの恩恵を受けるのみの日本人と言う肩書きの似非国民には、いまは用がない。

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