朝鮮人の主宰する宗教団体は、宗教は金儲けや女を集める手段としか考えていないのではないか。
またあの単純な思考のついでに、まじめに教義について学ぼうとなどしないから、何かと問題を起こすということになるのではと思っていた。
韓国のベストセラー作家の本など、読めたものでない。単純すぎないか。ドラマも然り。
真理を追求しない結果、信者を欲望の対象としか見ないという事がおきる。そして宗教は悪いものという議論に拍車がかかる。
朝鮮人には、困ったものだ。
数々の宗教関係の悪い事件がおきるたび、たとえば摂理のように、すべての宗教は百害あって一理なしではないのかという議論になってしまう。
結果が、「宗教は言葉があるから生まれたものという認識が必要・・・」というような、黒鉄先生のようなご意見なってしまう。
宗教は、伝えるために言葉にした部分もあるだろう。しかし、それだけでは伝わらない部分があり、それを修行でうめるはずだ。
私は単に先祖を供養し、いずれ自分が墓に入ったとき、われわれの死後も思い出してもらい、今自分が先祖にしているように好きな供物とか花とかを供えてもらうための宗教であって良いと、かつて思っていた。
しかし最近の人心の荒廃を目にし、さらに目を覆いたくなる現実の事件が度重なるにつれ、何が人を人として支えているのか。
他の痛みがわかる人間ならば、それをしないで歯止めをかけることが出来る。
人には考える能力があるからこそ、宗教というものがあるのではないかと、仏典を読んで納得するに至った。
もし動物と同じならばまさに弱肉強食で、宗教のある今の世界よりもさらに悲惨な結果になるのではないか、だからこそ宗教は必要なのだという逆説的な結論になった。
黒鉄先生の言うように「宗教があるから混乱がある」のではなく、宗教を悪用しているものの存在が問題なのではないか。
したがって朝鮮人のように、欲得のため宗教をかじり教義も学ばず、それでいて他の民族がキリスト教や仏教に学ぼうとすることを邪魔し、考える頭もないのに知ったかぶりをしているさまにはあきれていた。
宗教の教義などは、自分たちが悪さをするために適当な解釈に摩り替えるというのが彼らの特徴だ。
本当の宗教とはもっと深遠で、理解できる範囲も其の人格によるという。
したがって仏教などは、資格のないものには教義の深遠な部分は伝わらないし伝えない。
「嘘をつくことは正しく、騙されるほうが悪い」などという朝鮮人の精神や発想では、まず宗教が解かろうはずはない。
キリスト教も、深遠な教義があると感じている。
宗教を否定することは、「まだまだ学ぶ事がある」ことの意味で、宗教に思いを馳せるにいたっていない人格であると見ている。
ただ生きること・病むこと・老いること・そして死ぬことが人間には宿命としてあるわけで、それに直面したときに、人は必ず生と死について考えることになる。なぜなら死とは、誰しも避けて通れないことだからだ。
したがって逆境にあるときや病のときは、これらを考える良いチャンスではないかとも思う。(ただこのような時に擦り寄る者がいるが、警戒が必要だ)
逆に順風満帆の人生は、考えるチャンスに欠けるという点では、ある意味不幸なのかも知れない。ゆえに、自殺などは思いとどまり、それと対峙すれば何かが見えてくるのかもしれない。
そして自分はなにものなのかという疑問がわいてくるのだ。人体の細胞の中に自分があるわけではない。
したがって、死に近くなってこのような疑問であわてるよりも、優れた宗教家の話などを聞いておく事は、転ばぬ先の杖だと私は感じている。
くれぐれもペテンにひっかかからぬように注意されたい。たとえば宗教のはずが「宗教は悪」という共産国家と親しくし、宗教弾圧する国の要人と会談するものや、金だけが目当てのものは、論外だ。
人の人生の時間は取り戻せない、今が大事なのだ、この時をどのように生きるべきかという助言は、その世界で実積を上げ厳しい修練をした方々の真理を聞く事にある。優れた宗教家の説法や本は、大切な言葉であると、昨今感じている。
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